日記
私は去年の9月から毎日日記をつけています。
でも今日読んだ本に、毎日でなくても書きたいことができた日に書く”思い出帳”というものが出てきて私の心は揺れました。
日記を「書く」ことが目的にするのではなく、「書きたい」ことを書くことが大切なのではないかと書かれていました。あれ、なんだか心に響く。
私は日記を書くこと自体に意味を見出しているので、日記を毎日書くことに疑問はあまり感じていません。代わり映えのしない日々の変化に気づき、それぞれの日に意味を与えていく作業だと思っています。1日1日を生きている証として、日記は今の私にとって大切です。
しかし、このブログはどうだろう。
ここは、私が感じて文字に記しておきたいという思いから始めた場所です。ただ毎日書けばいいというわけではなく、大切にしていきたい言葉を残しておきたい場所です。
まぁつまり何が言いたいかというと、書きたいことができた時に記しておくようにしようということです。毎日無理する必要もないですよね。
私の自己満足の場所だし...。
歩く
歩くのって、誰でもできますよね。物心もつかない小さな頃からなんとなく立つようになってつたい歩きするようになって、気がついたら当たり前のようにできるようになっていました。不思議。
話すのもそうですよね。日本語を話せるようになりなさい!って誰かが意図したわけではなくても、日本語を使う世界で生きていれば日本語を話せるようになる。英語の世界だったら英語で、ドイツ語の世界だったらドイツ語。自然に身についています。
きっとどれもある程度の練習過程を経てできるようになっているはずなんですけど、その練習の記憶をすでに忘れてしまっているんでしょうね。毎日毎日無意識に繰り返していくうちに。それがかつて努力の末に獲得した能力であることを感じさせないくらい我が物として扱えるようになっているんです。
そういうことって、他の物事にもあてはまると思いませんか。
私は頑張って英語を勉強していますが、これが身につけば英語を話せなかった頃を思い出せないくらいになるのかもしれません。こうやって日々感じたことを文字に起こす作業を続けていれば、だんだんと文章が上手くなっていって苦もなく書けるようになっていくのでしょうか。
努力の期間が大変なんでしょうね。
それを乗り越えなければならないけど、そうやって当たり前の能力をたくさん持った素敵な人になっていきたいです。
お風呂
入っちゃえば気持ち良いし「入ってよかったな〜」ってなるのに、入る前まではすごーくすごーくめんどくさいですよね。なんでなんですかね。
そういうことって他にもいくつかありますよね。
勉強し始めればそれなりに集中してやれるのに始められないとか、外に散歩しに出れば気持ち良いのになかなか家を出られないとか。友達との約束、行けば絶対楽しいんだけどなぜか準備を始めるのが遅くなってしまうとか。
人間は学習する生き物のはずです。自分の過去の行動や出来事から学び、未来に生かしていけるのです。
でも、お風呂とか勉強とか、どうして学習できないんでしょう。
すごく嫌な気持ちが深くに根付いているわけでもなく、どちらかといえばやればプラスになるという経験しかないはずなのに。
不思議。誰か知ってますか?
図書館
数年ぶりに図書館に行きました。
毎日が暇すぎて久しぶりに本を読もうと思って、でも家に全然良い本がなかったんですよね。私は文庫本を買う習慣が今までなかったので、私の興味に合うものが全然ないんです。母はミステリ的なものが好きだったらしく、家にはそういうものばかり。
むむむ。図書館行ってみるか。
久しぶりの図書館っていいですね。静かで、一人一人が自分の世界に浸っている感じ。誰にも邪魔されない洗練された雰囲気がありました。
あれ、図書館っていい場所だな。もうちょっと通おうかな。
でも、本を選ぶのってマジで難しいですね。「好きな本を読めばいいだけじゃん!」と言われそうですけど、普段本に触れてないから好きな本すらわからないんですよ。
書店に行けば今おすすめの本がわかるように並べられているけれど、図書館(少なくとも私が行ったところ)にはそういったコーナーはありませんでした。
え、どれを読めばいいんだろう。
とりあえず本当に適当に数冊借りてきましたが、次に行く時までに”人生で一度は読むべき本”みたいな何かのサイトでお勉強しておきます...
靴下
靴下ってなぜか片方だけなくなりますよね。不思議。
それに片方だけ穴が空いたり擦り切れていったり。
靴を脱いでどこかに上がるシーンがない限り、靴下が人に見られることって少ないですよね。靴に隠れちゃう。その部分にお金かけたり気を使える人って素敵ですよね。どうしても手を抜いちゃう。みんなからよく見えるトップスとかパンツとかに気合い入れちゃいますよね。靴下がその人自身の心の余裕を表しているといっても過言ではない。(過言)
片方だけじゃ意味をなさないのが靴下。
別々の靴下を履く習慣とか新しいファッションのあり方として生まれないですかね。
面白さ
面白さって、人によって違いますよね。
私は今日、後ろのあらすじ的なところに「爆笑小説」という文言がある本を読みました。
...が、爆笑どころか小笑がうまれるかも際どいくらいのお話でした。
でもきっと誰かはこの小説を「爆笑」と評価したということですよね。その人が考える「爆笑」と、私が考える「爆笑」はきっと基準が違うんだろうなぁと漠然と感じました。
皆さんにとっての面白さってなんですか?
私は共感性羞恥が結構強いタイプなので、あまりネタ番組は好きではありません。面白いネタはもちろん好きですが、すべっている人を見るのがめちゃくちゃ苦手です。すべり芸も同じく苦手です。編集で上手い感じに面白くしてくれている番組の方が好みです。
私と逆な人もきっといますよね。「編集で面白く見せるのはお笑いとしては邪道だ!」みたいな。
人によって面白いの基準はさまざまで、誰かにとっては最高の面白さでも他の人にとっては全く価値がなかったりするんでしょうね。だから、”万人受けする面白い何か”を作り上げるのは本当に難しくて、誰かからは批判が上がってしまったりするのかな。
一方で、多くの人にとって価値を感じられないようなものでも、誰かにとっては価値のあるものであるはずです。このブログも。
カバン
美人はカバンが小さいだなんて、誰が言い出したのでしょう。
小さなカバンの良さっていったい何?
ちょっと手が汚れてしまった時にティッシュを渡してくれて、汗をかいた時にはサッと汗拭きシートを渡してくれ、雨が降って濡れた時には小さなタオルを貸してくれるような人の方が素敵ではないですか?
小さなカバンの方が、ファッション的におしゃれなのでしょうか。
私にはよくわかりません。(異論は認めます。私にファッションセンスはありません。)
しかも、長時間の外出において女性は化粧直しが必要です。「この子化粧ずっと綺麗だな。うまいな(^ ^)」と思うあの子も、実は見えないところで努力しているんですよきっと。
そして、化粧直しにはもちろん化粧品が必須です。顔をパフパフはたいたり、アイシャドウを調整したり、リップをぬりぬりします。
もちろん、そういった化粧直しが必要ない人もいます。
薄化粧の美人です。
あ、だから美人はカバンが小さくて済むのか。